KOA - 北朝鮮帰国事業・拉致問題・北朝鮮人権改善NGO「モドゥモイジャ」
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人権救済申立書

2015年1月15日

日本弁護士連合会人権擁護委員会 御中

申立人ら 川 崎 栄 子  他11名
申立人らの表示
別紙申立人目録記載のとおり

申立人ら代理人弁護士
別紙代理人目録記載のとおり

相手方 日本国
同朝鮮民主主義人民共和国
同在日本朝鮮人総連合会
同日本赤十字社
同朝鮮民主主義人民共和国赤十字社
同赤十字国際委員会


申立の趣旨

相手方らは、1959年に開始された在日朝鮮人の帰還事業(以下、「帰還事業」という)に伴い 朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」という。)に渡り、未だ北朝鮮に残る邦人(以下、 「邦人帰還者」という。)及び非邦人の帰還者(以下、「非邦人帰還者」という。)の人権を擁護 するために緊急に下記の措置を講ぜよ、との警告を求める。

第1 相手方 日本国に対して

  1. 邦人帰還者についても未だ実現せず交渉過程にあるにとどまるが、非邦人帰還者に ついても、氏名、所在地、家族関係、出身地、年齢、日本への往来の希望の有無に ついて、相手方北朝鮮政府から独立した形で調査を行うこと。そのために全力を傾ける ことを迅速に決定・表明し、実現にむけて最善の努力を尽くすこと。
  2. 非邦人帰還者についても日本への往来を希望する者については、当該非邦人残留 帰還者の家族も含む日本への自由往来を速やかに実現すること。そのために全力を 傾けることを迅速に決定・表明し、実現にむけて最善の努力を尽くすこと。
  3. 上記各事項の調査・日本への自由往来実現に向けて、相手方北朝鮮政府の協力を 得るため、同国政府に対して協力依頼し、調査方法、調査手段、調査スケジュール、 自由往来 の方法及び時期等の具体的事項について外交交渉をなすこと。
  4. 非邦人帰還者についても日本への自由往来に向けて、往来手段、往来費用について 適切な便宣を図ること。
  5. 日本への往来を希望する者を含む、今も北朝鮮に居住する全ての帰還者について、 すべての人権が保障された上、健康で文化的な最低限度の生活を送れるよう、相手方 北朝鮮政府と協議すること。
  6. 国会内など適切な独立した機関に帰還事業の調査委員会(以下、「国会調査委」と いう。)を設立し、帰還事業に伴う人権侵害の発生の原因究明・これまでとられた各相手 方による救済措置の内容の究明及びその効果の検証、原因究明及び被害者に対する 補償に向けた調査・提言を行うこと。

第2 相手方 北朝鮮政府に対して

  1. 非邦人帰還者及び邦人帰還者に対し、日本との往来の自由を含む、移動の自由を 与えること。
  2. 上記第1、1、2記載の調査及び自由往来の実現に向けて、相手方日本政府と真摯な  協議を開始し、この実現に向けて包括的かつ全面的調査・自由往来に向けた政策の 立案・実施などを、相手方日本政府と密接に連携しながら行うこと。
  3. 上記国会調査委に協力することを含め、帰還事業に伴う人権侵害の真相究明に協力 するとともに、その勧告に真摯に従い、実施に協力すること。

第3 相手方 在日本朝鮮人総連合会、同 日本赤十字社、
同 朝鮮民主主義人民共和国際赤十字会、 同 赤十字国際委員会に対して

  1. 上記第1、1、2記載の調査及び自由往来の実現に向けて、相手方日本政府と相手方 北朝鮮政府が真摯な協議を開始するよう両者を強く促すとともに、この実現に向けて 相手方北朝鮮政府が包括的かつ全面的調査・自由往来に向けた政策の立案・実施 などを行うよう、相手方北朝鮮政府に強く促し、必要な協力を行うこと。
  2. 上記国会調査委に協力することを含め、帰還事業に伴う人権侵害の真相究明に全面 的に協力するとともに、その勧告に真摯に従い、実施に協力すること。
申立の理由

第1 申立の概要

1959年から開始され1984年まで続いた在日朝鮮人の帰還事業によって、当時「地上の 楽園」と宣伝された北朝鮮に渡った総計9万人以上の者のうち、2014年5月29日の日朝 合意(以下、「本件日朝合意」という。)(甲12)において、日本人配偶者を含めた 全ての 日本人が調査対象となった。 帰国運動開始後、実に50年以上を経過して邦人 帰還者について調査が開始された ことは遅すぎたとはいえ、極めて重要な前進といえる。 しかし、同じく悲惨な運命をたどり、現在も人権を侵害され続けている非邦人帰還者に ついてもその人権の経済が緊急に必要であることは明白である。また、オーストラリアの 最高裁判所の元判事であるマイケル・カービー氏を議長として、国連人権理事会決議に より2013年に設立された国連・北朝鮮の人権に関する調査委員会(Commission of Inquiry on Human Rights in the Democratic People's Republic of Korea、以下「国連・ 調査委員会」という。)が2014年に公表した報告書(国連人権理事会及び国連総会でも 日本政府をはじめとする圧倒的多数が支持)でも、本帰還事業が「人道に対する罪」に 該当することが認定されたところでもある。よって、本件日朝合意の対象外となった 非邦人帰還者を含めた帰還者全員について、各相手方に対し、現状調査及び自由往来 の実現、そして帰還者たちの北朝鮮における人権の保障を求めるため本申立に至った。


第2 申立に至る経緯

  1. 在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業の概要
    1959年2月13日の閣議了解(甲5、39頁)において、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還 事業の実施が岸信介内閣によって公式決定された。これを受けて同年8月、日朝両 赤十字の間で「朝鮮民主主義人民共和国赤十字会と日本赤十字社との間における 在日朝鮮人の帰還に関する協定」(甲5、39-41頁)(以下、「本件帰還協定」という。) が締結され、同年12月より北朝鮮帰還事業が開始された。本件帰還協定に基づく 帰還事業は1年ごとに更新され、1967年末まで続いた。その後約3年の中断を経て、 1971年2月に成立した「帰還未了者の帰還に関する暫定措置の合意書」および「今後 新たに帰還を希望する者の帰還方法に関する会談要録」に基づき、帰還が再開された。 こうして1959年12月から1984年7月までの間に北朝鮮に渡った人9万3340人、そのうち 日本国籍保持者は約6800人にのぼった(そのほか中国人7人) (甲4、1頁、甲5、50頁)。

  2. 帰還の背景(甲14)
    (1) 主権回復後の在日朝鮮人問題
    1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約に伴って日本は主権を回復し、 公式に独立国となった。一方このことは在日朝鮮人社会においては別の重要な 意味を持っていた。講和条約発効とともに在日朝鮮人は正式に日本国籍を離脱 することになり、外国人として管理されるようになったのである。
    この後の相手方日本政府の方針は基本的に送還、残留する者に対しては管理の 強化という点で一貫していた。このような相手方日本政府の方針の背景には、 在日朝鮮人運動への警戒心があった。朝鮮戦争中の1951年1月9日、日本共産 党民族対策部の下に結成された在日朝鮮統一民主戦線(以下、「在日民戦」と いう。)は、「定住少数民族」としての生活権を要求する一方で、日本国内の内政 革命を目指していた。在日民戦の行動網領とされる1952年5月頃に作成された 「在日朝鮮民族の当面の要求(網領)草案」では、朝鮮戦争の即時停戦、日本再 軍備・天皇制・単独講和等への反対、日本民主国政府の樹立と日朝間の友好、 出入国管理令等の廃止、自由往来及び永住権の獲得、社会保障制度の差別 撤廃などの内容を含む計21カ条が掲げられている。
    このような内政関与的な性質と直接行動を伴う激しい運動形態から、在日民戦は 公安調査 の対象であり、検挙者も後を絶たなかった(甲2、66-67頁)。

    (2) 北朝鮮への渡航要求
    相手方日本国外務省が「北朝鮮へ帰りたいという声は、すでに53年の朝鮮休戦協 定成立前後から一部在日朝鮮人の間に聞かれた」と記しているように、1948年に 成立した未承認国家、北朝鮮への帰還問題を相手方日本政府当局が認識したのは この頃であった。(甲5、113頁「外務省情報文化局「北朝鮮自由帰還問題について」 「世界の動き 特集号10」より)。朝鮮半島北部への帰還希望者は朝鮮戦争以前か ら存在したが、その大多数の帰還は未解決のまま残されていた。終戦後、46年3月 までに在日朝鮮人約140万人が朝鮮半島へ引き揚げた。同年3月に相手方日本政 府が在日朝鮮人の帰国希望の有無を登録させたところ、全在日朝鮮人64万7006 人のうち帰還希望者は51万4006人だったが、そのうちの9701人が38度線以北 を希望していた(甲4、21頁)。しかし、同年11月に締結された米ソ協定により出身地 による制約が生じ、また朝鮮戦争の勃発で輸送計画が中止された結果、実際に 朝鮮半島北部へ帰還した者は、351人に留まっていた。そして朝鮮戦争休戦協定が 成立した1953年7月27日以降、帰還問題が再び浮上した(甲2、69-70頁)。

    (3) 相手方在日本朝鮮人総連合会の結成(甲2、76-77頁)
    1955年5月、在日朝鮮人による帰国運動に変化を生じさせる出来事が起こる。 相手方在日本朝鮮人総連合会(以下、「朝鮮総連」という。)の結成である。これを 機に帰国運動の位置づけが大きく変化する。それまでは、在日民戦の運動方針の 中では、帰国運動は、「生活擁護運動」や「強制送還反対闘争」に付随する権利要 求の一つとして位置づけられていた。1954年12月に発表された声明書でも、 「自ら帰国を希望する人に対し、民主的諸権利を保障した帰国の援助を与えると ともに渡航の自由を与えるべき」と述べられており、個人の権利として帰国及び渡航 の「自由」が主張されるのみである。このような帰国運動の性質に渡航の自由を与え るべき」と述べられており、個人を変える契機となったのは、相手方朝鮮総連の結成 であった。相手方朝鮮総連はその網領に「朝鮮民主主義人民共和国の公民として 民主主義的な諸権利と民主主義教育を堅守し・・・・また、祖国の平和的共存に関 する外交政策を忠実に遵守し」と定め、相手方北朝鮮政府の強い影響力の下に、 相手方北朝鮮政府の存外公館としての性格を強めた。さらに、相手方朝鮮総連は、 活動方針として「すべての在日朝鮮同胞を朝鮮民主主義人民共和国に再結集」する ことを掲げるなど、祖国志向を強めていた。

    (4) 帰国運動の大規模化と希望者の拡大と閣議了解
    1958年9月8日の共和国創建10周年記念慶祝大会において金日成は、「在日朝 鮮人の帰国を熟烈に歓迎し、すべての条件を保障する」と声明を発表した(甲17)。 さらに、同年9月16日には南日外相(甲18)、同年10月16日には金一副首相の 談話が相次いで出され(甲19)、帰還に必要な措置を相手方日本政府に求めると 同時に、相手方北朝鮮政府が帰国旅費をすべて負担し、帰国船を準備する用意が あることを明言した。また、金一は帰国後の生活保障に関しても詳細に説明し、 すでに北朝鮮の各工場・企業・農村、漁村で帰国者を受け入れる準備が進行して ていることを述べた。こうした相手方北朝鮮政府の歓迎に応えるようにして相手方 朝鮮総連の帰国運動は急速に拡大していき、相手方日本政府に対する帰国実現の 要請が繰り返し行われるようになった。(甲4、93-95頁)。
    このような相手方朝鮮総連の運動にともなって、帰還希望者は著しく上昇した。 1657年頃までに顕在化した帰国希望者は1万人に満たなかったが、1958年夏に 帰国運動が大規模化した後、同年10月5日には1万7130人、さらに1959年1月末 には11万7000人余と、わずか4ヶ月で約10万人も増加したことが相手方朝鮮総 連によって発表されている(甲4、98-99頁)。
    相手方朝鮮総連による大規模な帰国運動にくわえ、日本人による帰国支援運動 も活発化した。政党では共産党、社会党が積極的に支援したほか、超党派の大物 政治家や各界の著名人らが名を連ねた「在日朝鮮人帰国協力会」も発足し、相手 方日本政府に帰国実現を要請した(甲6、243頁)。
    このような環境下で岸政権は決断を下し、1959年2月13日、相手方日本政府は 「在日朝鮮人中北鮮帰還希望者の取り扱いに関する閣議了解」において、北朝鮮 帰還事業の実施を決定したのである(甲2、89-92頁、甲5、39頁)。同年8月13日に はインドのカルカッタにおいて「日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会 との間における在日朝鮮人の帰還に関する協定」(以下、「本件協定」という。)が 調印され、これより在日朝鮮人の自由意思に基づく帰還が実現されることとなった (甲5、339-41頁)。当初、本件協定第9条に定められた有効期間は1年3ヶ月で あったが、帰還事業は1959年12月14日の第1次帰国船から1984年の 第187次船まで四半世紀もの間、続けられた(甲4、41頁)。

第3 相手方の責任

  1. 相手方日本政府の関与
    国内世論の高まりを受け、1959年2月13日、相手方日本政府は北朝鮮帰還事業の 実施を閣議了解した(甲5、369頁)。この閣議了解では、「移住地選択の自由」という 国際通念に基づくものであり、帰国希望者の意思確認などで相手方赤十字国際委員会 (以下、「国際赤十字」という。)の仲介を依頼すること、そして相手方日本政府は帰国 船の提供はおこなわないことなどがきめられた(甲6、244頁)。外務省文章によると、 この時期に相手方日本政府が対韓関係から逡巡していた北朝鮮帰還事業を決断した 理由として、以下4点が挙げられる(甲4、102-105頁)。

    一、集団帰国運動に伴う治安上の理由、及び在日朝鮮人の犯罪率の高さ・生活保護受給世帯の多さなどから、希望者は帰還させたいという声が一般世論や与党内で高まった こと。
    ニ、あえて帰国を認めることによる北朝鮮や国内左翼系政党・諸団体の「政治的謀略封じ」
    三、「李ライン」問題、漁業問題、帰国問題で韓国側との合意は困難であること。
    四、日韓会談休会中に帰還事業を実施して「最大の障害」を除去し、「クリーンハンド」で将来の会談再開に臨むのが適当であること。

    このとき相手方日本政府は、帰国者意思の確認などで相手方国際赤十字の仲介を依頼し た。形式上、帰国に関する一切の業務は相手方日本赤十字社(以下、「日本赤十字」と いう。)と相手方国際赤十字に委任し、相手方日本政府はそれを言葉通り「了解」すると いう形をとり、相手方国際赤十字の介入をより具体化させ、韓国側からの反発にも効果的 に対応しようとしたのである(甲8、160-161頁)。

  2. 相手方北朝鮮政府及び相手方朝鮮総連の関与(甲14)
    (1) 相手方朝鮮政府のシナリオと帰国運動の大規模化(甲6、238-243頁)
    相手方朝鮮総連結成初期の帰国運動は、相手方北朝鮮政府の対日・台南政策の 推進・宣伝手段として展開されたものの、依然として小規模で、帰国者に向けた宣伝 は誇大なものではなかった。相手方北朝鮮政府は帰国そのものを政策の重点に置い ておらず、想定された帰国者も①祖国への進学生、②在日朝鮮人が収容されていた 大村収容所の帰国希望者③「事情によって」帰国を希望する一般同胞、などに限定 されていた。
    しかし、1958年以降、相手方朝鮮総連による帰国運動が大規模化した。 1958年8月1日、相手方朝鮮総連川崎支部中留分解が開いた「八・一五記念集会」の 参加者らは、日本での生活の見通しが立たず、祖国に帰るしか方法がないとして、相手 方日本政府に対して帰国の早急な実現を求める帰国促進決議をおこなった。 同月13日には、相手方朝鮮総連の拡大中央常任委員会は,集団帰国の方針と早急な 対策を相手方日本政府に要求することを決定。各地の集会で集団帰国決議が相次い で採択された。前記川崎支部での「中留決議」以降、総連中央はきわめて短期間に 以前の帰国運動とは明らかに異なる大規模な運動に乗り出した。運動の大規模化の 裏には、北朝鮮指導部の描いたシナリオと工作が潜んでいた。この中留決議の1ヶ月 ほど前、金日成は北朝鮮駐在のソ連臨時代理大使ペリシェンコと面会している。そこで 金日成は、在日朝鮮人すべての帰国をも視野に大規模な帰国を推進する方針、そして その狙いが政治的・経済的利益であることを打ち明けた。 また、金日成は、「日本からの朝鮮人の帰還に関する問題提起において、積極性を 発揮するのは日本に住む朝鮮人自身」であり「朝鮮総連が日本政府と共和国政府に しかるべき要望を」し、その後に「共和国政府による声明が続くことになる」伝えたので あった。つまり、金日成ら北朝鮮指導部は、対南・対外工作を担う連絡部の工作に よって帰国運動を大規模化させ,在日朝鮮人側から帰国要望が急激に高まったように 見せかけ、それを北朝鮮側が受け入れるというシナリオを描いていたのである。実際に、 帰国運動の高揚を受けて、金日成は1958年9月8日、帰国者を熱烈に歓迎し、その 生活や進学を保障すると表明した(甲17)。金日成の歓迎表明を受けて、帰国運動は さらに大規模化していく。1958年10月から翌1959年3月までの間、帰国問題に関 する大小の集合が全国で8275回(参加者28万5000余人)も開かれた。この頃から、 北朝鮮に対して「地上の楽園」といった宣伝が相手方朝鮮総連の機関誌などで行われ るようになる。

    (2) 相手方朝鮮総連の帰国者獲得運動
    相手方朝鮮総連は、帰国運動に取り組むとともに、自ら帰国希望者を、確保する 行動を進めていたことが相手方朝鮮総連による帰国希望者の発表や当時の中朝ソ連 大使プザノフの日誌に記されている相手方朝鮮政府外相の表明、日本赤十字外事部 長の声明などからわかっている。相手方朝鮮総連は帰国希望者に用意した「帰国申請 書」あるいはそれに類する書類に必要事項を書かせて署名・押印させ、それを相手方 朝鮮総連に提出させていた。
    さらに、1961年以降帰国者が減少してくると、本件帰還協定を無修正で延長させる ために、相手方朝鮮総連は帰国者獲得運動を組織的に展開していった。とりわけ、 北朝鮮の経済建設に役立つ人々を重点的に帰国させる方針のもと帰国者を集め、 帰国者集団に組織して計画的に相手方日本赤十字に申請させ、北朝鮮に送りだして いった。このように、相手方朝鮮総連は帰国対象に関する方針を決定し、帰国者の 募集・人選、帰国の順序・時期を実質的に取り仕切っていた。

    (3) 虚偽の情報による帰国意思の形成
    朝鮮総連系の会合・学校・機関誌は、帰国者が北朝鮮に関する肯定的な情報を手に 入れる主な情報源であった。1958年8月に帰国運動を大規模化させた相手方朝鮮 総連は、翌1959年末までの間に帰国実現のため、様々な規模の集会を全国で延べ 1万9400回余も開催した。相手方朝鮮総連は、こうした集会や分会の会議をより多く 開催することで、「祖国の事情を聴く集まりをより頻繁に持ち」、「幸福で誇りに満ちた わが祖国をより深く知るように力を入れなければならない」と述べている。加えて、 民族学校での教育方針に関して、1958年には北朝鮮への帰国を念頭に置いた社会 主義経済建設のための教育、基本的な生産技術教育などが導入され、1959年には 生徒の父母に対して「祖国の発展の姿を正確に知らせる」ことや教職員が一般同胞の 帰国者拡大のため教養者としての役割を果たすことなどが決められた。こうした会合、 教育とともに総連系メディアもまた、帰国意思の形成に大きな影響を与えた。 機関誌『朝鮮総連』や写真グラフ誌『朝鮮画報』では、北朝鮮の発展ぶりが大々的に 宣伝され、『ルポ 帰国した人びと』(平壌 外国文出版社、1960年)などでは、先に 帰国した人々の「幸福な生活」が伝えられた(甲4、168-173頁)。
    また、相手方朝鮮総連中央常人委員会は、「在日同胞たちの帰国実現のために -帰国問題に関する資料および門答集-」において、帰国を検討する在日朝鮮人から 寄せられた疑問に対し、北朝鮮は「いまでは食べても余るほど余裕ある地帯」であり、 「住宅、食糧、衣類、およびその他の生活に必要な全ての物質的条件を充分に保障 され」ていること、「誰もが自分の技能と希望によって職業を持つことができる」などと 述べている(甲7、78-81頁)。
    しかし、実際には定住地や職場の「配置」は希望通りにはならなかった。 平壌に住むことができたのは帰国者全体の約5パーセントのみで、相手方朝鮮総連 幹部やその家族・子弟、また北朝鮮当局にとって「利用価値」のある著名人や特別な 技術・技能を持つ帰国者などに限られた。一方で、地方に配置された大多数の帰国者 の住宅は劣悪なものであった。また、配給された食糧も劣悪で消化の悪いものばかりで、 米1割、小麦粉5割、残りはソ連製の黒いトウモロコシ、あとは白菜キムチが多少ある 程度だったという(甲6、284-286頁)。 実は、このように北朝鮮が「地上の楽園」とはかけ離れた実情であることは、北朝鮮 高官も充分に認めていたことがわかっている。1960年6月、相手方北朝鮮政府がソ連 大使館に渡した文章では、「住民生活は、目下低い水準にある。(略)(朝鮮)戦争に よって、わが人民の生活にもたらされた損害は、いまだ完全にぬぐい去られてはいない」 と記され、ソ連文書「ペリシェンコ日誌」(1960年6月26日)では「食糧難は、まだしば らく解決されそうにない。(略)コメの住民への標準的配給は、平壌でのみ、しかも基準 量の50パーセントという規模でしか行われておらず、残りの部分は、トウモロコシと 小麦粉があてがわれている」ことが記載されている。こうした記載から、北朝鮮指導部は 住民生活が「低い基準にある」ことを十分知りつつも朝鮮総連などを通じて「地上の楽園」 という虚構の宣伝をおこない、在日朝鮮人の帰国を促していたことがわかる(甲6、286-288頁)。

  3. 3 相手方国際赤十字、同日本赤十字、同朝鮮赤十字の関与
    (1) 相手方国際赤十字の関与
    閣議了解に伴う相手方日本政府及び相手方日本赤十字からの依頼を受けて、相手方 国際赤十字は帰還事業への協力を決定する。ただし、これは相手方国際赤十字から 相手方同日本赤十字宛に送られた質問状に対する相手方日本政府の肯定の返事が あってのことである。以下前記質問7点の要約を記載する(甲4、117-118頁)。

    一、日本当局は、在日朝鮮人が意思に反して送還されることがないことを公式に確約するか。
    ニ、すべての朝鮮人に、北朝鮮あるいは韓国に帰りたい、日本にとどまりたい、という意思を自由に表明する機会があることを客観的に知らせるか。
    三、日本当局は日本在留を選んだ朝鮮人の地位がどうなるかを知らせる用意があるか。
    四、日本当局は秩序を維持し、静穏かつ平和的な空気のなか登録・乗船が行われるようすべての措置を講ずる用意があるか。
    五、帰国申請者は乗船区域に入る前にその意思を変更できるか、国際赤十字代表は立会人なしに各個人に質問し、自由意思かどうか確かめられるか。
    六、日本に派遣された国際赤十字代表と、朝鮮人各個人は話をする機会が与えられるか。
    七、日本当局は国際赤十字の参加に必要な技術的及び経費面の便宜を提供するか。

    しかしながら、相手方北朝鮮政府は国際赤十字の「審査」の権限に強硬に反対していた。 相手方北朝鮮政府は日本赤十字の発表した『帰還案内』を取り消すように相手方日本政 府へ働きかけ、相手方朝鮮総連は帰還事業そのもののボイコットに及んだ。 結果として、相手方国際赤十字は、実際には事態の結果を左右する権限などごく限定的に しか与えられていない状況で仕事をすることになった。帰国者の自由意思確認のために、 相手方国際赤十字から派遣された代表団22人のうちほとんどは日本語がまったく話せず、 何万という大量の人の移動を扱うにしては人数も少なかった。実際に彼らが帰国する朝鮮 人たちに直接触れる機会はほとんどなかった(甲13、270-284頁)。

    (2) 相手方日本赤十字と同朝鮮赤十字の関与
    帰還問題について相手方日本赤十字の関与が求められたのは、1953年12月に、 相手方日本政府の外務省外務次官が北朝鮮訪問日本使節団に対して「現在北朝鮮と 交渉するためには、日赤と交渉するしかない」という見解を示しているように、相手方 日本赤十字は、国交が存在しない両国同士の連絡機関という側面があった。また、 在日朝鮮人の警戒心や韓国政府の反発に配慮をし、相手方日本政府が率先して交渉 を行うのではないという形式を整える必要もあった。
    このような配慮の結果、相手方日本赤十字が実務担当機関として浮上したのである (甲2、73頁)。 また、相手方北朝鮮政府は、1959年2月16日に内閣決定第16号「日本から帰国 する朝鮮公民の迎接に関して」を発し、帰国者の就職・生活安定・就学などに関する 業務を果たす「迎接委員会」を組織することを決定し、帰国問題に関する実務的問題を 相手方日本赤十字との会談で解決することを相手方朝鮮赤十字に委任した (甲21、201頁、甲20)。
    当初、相手方日本赤十字が帰国問題を始めるきっかけとなったのは、終戦後も北朝鮮 に残留していた日本人の引揚げ問題であった。1954年1月、相手方日本赤十字は、 相手方朝鮮赤十字に対して北朝鮮残留日本人の引揚げについて援助を要請すると 同時に、引揚船の往路を利用して在日朝鮮人で帰国を希望する者の帰国を援助したい と打電している(甲4、65頁)。
    相手方日本赤十字は、1955年後半から上記の在朝日本人引揚問題に関連し、 相手方国際赤十字と頻繁に接触するようになった。そのなかで、外交官出身の 井上益太郎・相手方日本赤十字外事部長が中心となり、北朝鮮帰国問題について 相手方国際赤十字に働きかけを始めた。1955年12月、相手方日本赤十字は相手方 際赤十字に帰国問題への介入を最初に要請した。島津忠承・相手方日本赤十字社長 から相手方国際赤十字のボアシェ委員長宛に書簡には、「帰還が韓国との間に問題を 起こさず、それが北朝鮮の赤十字でなく赤十字国際委員会の手で遂行されるならば、 日本側はまったく異論なく、むしろ期待を寄せている」と記されている。
    こうして相手方日本政府は、初めて北朝鮮帰国実現に向けた具体的な動きを始めた。 相手方日本赤十字の要請に対し、相手方国際赤十字は積極的な検討をおこなう旨の 回答をし、その後1956年4月から同年6月にかけて極東使節団を日朝韓3カ国に 派遣し、極東の人道問題に関する基礎的な情報を収集した(甲6、231頁)。
    1959年2月13日の相手方日本政府の閣議了解を受けて日朝両赤十字は同年4月 から、帰還事業の内容を取り決める本件帰還協定の締結に向けた会議をスイス・ジュ ネーブの相手方国際赤十字本部で行った。しかし、相手方日本政府が前提条件とする 帰国者の「意思確認」に、相手方北朝鮮政府が強く反対して、協議は難航した。
    相手方北朝鮮政府は、「意思確認」が帰国に反対する勢力に利用され、帰国者が減少 することを恐れていたのであった。これに対して、相手方日本赤十字は「意思確認では、 (帰国者の)思想、出身地、北朝鮮在住の家族の有無、反日運動への参加経験、前科 の有無は一切問題にしない」と約束し、さらに「帰還を希望した理由も聞かない」などと 表明した(甲21、247頁)。
    その結果、1959年6月24日までに、本件帰還協定、付属書、共同コミュニティの 起草を完了し、同日、日朝双方赤十字の代表が仮調印を行った。 1959年8月上旬、相手方国際赤十字は帰還事業への協力を表明し、同年8月13日 には日朝両赤十字は本件帰還協定を締結した。同年12月14日、新潟港から最初の 帰国船が出航した(甲21、248-257頁)。
    以後、本件協定は1967年まで毎年更新され、最初の調印から8年後に終了した。 実際には、その後1984年まで小規模な帰国が続くこととなるが、これは相手方日本 赤十字と相手方朝鮮赤十字の非公開な合意によるもので、相手方国際赤十字の直接 の関与はなかった(甲13、312頁)。

第4 申立人らを含む帰還者らに対する人権侵害、人道に対する罪

  1. 北朝鮮国内における人権侵害(甲14)
    帰国者は、北朝鮮が「地上の楽園」であり、北朝鮮では必要に応じて物資やサービス (医療、教育等)を受けられるという宣伝に導かれて、日本から北朝鮮へ渡航した (甲1・291-292頁)。しかるに、実際の北朝鮮国内は人権侵害に満ちあふれており、 「地上の楽園」とはかけ離れていた。まず、北朝鮮国内にはまったく思想、表現及び信教 の自由が存在していない。北朝鮮の体制を批判するような思想、表現が一切許されて いない(甲45-46頁、62-67頁)。北朝鮮では国営メディアが情報を完全に統制しており、 外部の情報が入らないようになっている(甲1・54-62頁)。また、北朝鮮の指導者の 思想が唯一許される宗教となっており、それ以外の宗教を信じることが許されていない (甲1・67-73頁)。実際、帰還事業により日本から北朝鮮に渡航した者は、日本から来た という理由で思想、表現を厳しく監視されていた(甲1・65頁)。彼らが日本の家族に宛て た手紙の内容もすべて監視されていた(甲1・291-292頁)。また、北朝鮮国内には 差別が存在しており、帰還事業による日本からの渡航者に対する差別は厳しかった。 渡航者の中には学校でいじめに遭う者もいれば、スパイと疑われる者もおり、彼らには  仕事上での出世の道も断たれていた(甲1・82-83頁)。さらに、北朝鮮では、自国を 出国する自由を含む移動、居住の自由も侵害されていた(甲1・143-144頁)。そして、 北朝鮮は、食糧を住民に対する統制手段として用い、食糧に対する権利、生命に対する 権利、飢餓からの自由と言った人権(憲法13条)を侵害してきた(甲1・206-207頁)。 帰還事業により日本から北朝鮮へと渡航した者もこれらの人権侵害の被害者となった ことは明らかである。そして、北朝鮮政府は、政治犯収容所において、嬰児殺し、公開 処刑、暴力、意図的な飢餓などにより多数の人々を死に追いやっており、これらは殺人に 該当する(甲1・325頁、330-331頁)。また、政治犯収容所や一般収容所で被収容者 を長期間強制労働をさせることは奴隷的行為に該当する(甲1・325-326頁、331頁)。 これらの収容所では食糧を与えないという形で計画的な飢餓を発生させ、収容されて いる人を死に追いやっており、これは絶滅させる行為に該当する(甲1・323-325頁、 330-331頁)。政治犯収容所や一般収容所では被収容者に対して恒常的に暴力が 振るわれており耐えがたい苦痛を与えるものであるから、拷問に該当する(甲1・326頁、 331頁)。収容所での身柄拘束は、恣意的であり、公平な裁判を経ないものであるため、 拘禁に該当する(甲1・322-323頁、330頁)。 加えて、強姦や強制堕胎といった女性に対する性的暴力が収容所には蔓延している (甲1・327頁、331頁)。特に政治犯収容所では、被収容者がまったく人間として扱わ れておらず、一切の権利が否定されている。そのような状況下に置かれていること自体が 追害であるといえる(甲1・328頁)。 これらはいずれも文民に向けた組織的ないし広範な攻撃の一環であり、人道に対する 罪を構成する重大な人権侵害である(甲1・328-329頁、332-333頁)。帰還事業に より日本から北朝鮮へと渡った者の中には、このような人道に対する罪に該当するような 重大な人権侵害が蔓延する政治犯収容所に送られた者が多くおり(甲1・230-311頁)、 その他の収容所に入れられる者もいた(甲1・346頁)。 以上より、申立人らが帰還事業により日本から北朝鮮へ渡航したことにより、北朝鮮で 人権侵害を受けたことは明らかである。

  2. 帰還事業自体の人権侵害性(甲14)
    相手方北朝鮮政府や相手方朝鮮総連は、自らが「地上の楽園」であり、北朝鮮では豊 かな生活ができると宣伝して帰還事業による渡航を奨励した。その他の相手方もこれに 異議を唱えなかった。
    しかし、実際には北朝鮮は人権侵害に満ちあふれた国であり、帰還事業による日本から 北朝鮮への渡航者が渡航を決めた前提となった「地上の楽園」という約束は全くの虚偽で あった。申立人らを含む帰還者たちは北朝鮮のチョンジン港に入港するなり、前記約束が 虚偽であったことを知ることとなった。その後申立人らは、極端に低い生活水準、過酷な 生活環境、表現・集会・結社などの自由がまったくない環境、受けられると信じていた教育 等が受けられなかったことなどによる精神的打撃、北朝鮮の地元住民からの差別、政府 からの監視に対する怯え、そして90年代に特に深刻化した飢餓、保衛部による拘束に対 する恐怖、日本に残れば送ったであろう生活とはまったく異なる悲惨な人生を送ることを 余儀なくされた(申立人各陳述書(甲22-24)参照)。また、申立人の中には政治犯収容所 に送られた者はいないが、帰還者のなかの少なくない人たちが、政治犯収容所に送られる こととなった。京都からの帰還者の子どもとして北朝鮮で生まれ9歳のときから約10年間、 政治犯収容所であるヨドクにある第15管理所に一家で(殺害されたと見られる祖父を除く) 拘束された姜哲煥(カン・チョルファン)氏は、国連・調査委に対し、その政治犯収容所の 一区画すべてが日本からの帰還者らで占められていたと証言しており(甲1・294-295頁) その状況は同氏の自伝で世界的なベストセラーとなった「平壌の水槽」(甲16)にも詳述さ れている。つまり、帰還者の中には、「地上の楽園」どころか、世界の地獄といっても過言 ではない北朝鮮の政治犯収容所での過酷な生活を余儀なくされた者も少なくなかったし、 現在もその苦難の中にある者がいるであろう。申立人らはもちろん、帰還事業により日本 から北朝鮮へと渡航した者の多くは、このような北朝鮮の実態を知っていれば、帰還事業 により北朝鮮へと渡航することはなかった。国連・調査委はこうした帰還事業の欺瞞性に ついて以下のように(甲1・346頁)と端的に指摘している。

    Starting in 1959, more than 93,000 persons were lured by false promises to migrate from Japan to the DPRK. A few years after their arrival, they were denied to have any contact with the family members they left behind. Many of them, ended up in political prison camps and other places of detention in the DPRK. Among them were also several thousand Japanese nationals who had been expressly promised the right to leave the DPRK.
    (以下、邦訳)
    1959年に開始され、9万3千人以上が、偽りの約束に誘われ、日本から北朝鮮に移住し た。到着後数年して、移住した人々は、残してきた家族との接触を否定された。うち多くの 人々が、政治犯収容所をはじめその他の施設に拘禁された。こうした人々の中には、 北朝鮮を離れる権利を明示的に約束された数千人の日本人も含まれていた。すなわち、 相手方北朝鮮や相手方朝鮮総連は、申立人らを含む帰還事業による帰還者たちを錯誤 に陥らせた上で北朝鮮へと渡航させたものである。

    かかる相手方北朝鮮の行為は、国際刑事法上、北朝鮮による日本人拉致事件などと同様 強制失踪に該当し(甲1・291-95頁)、非人道的な行為として、「国際社会全体の関心事で ある最も重大な犯罪」(ローマ規定第5条)である「人道に対する罪」に該当すると国連・調査 委員会から認定されている(甲1・345-46頁)。すなわち、嘘の宣伝による帰還事業自体が 既に重大な人権侵害性を帯びているものである。したがって、かかる意味においても、 申立人らが人権侵害を受けたことは明らかである。

  3. 相手方の作為義務
    (1) 申立人らが北朝鮮にわたった時点で、相手方らは北朝鮮が「楽園」でないことを知って いた又は知るべきであり、そもそも申立人らの錯誤を解かないままに申立人らを帰還さ せるべきでなかったこと(甲12、甲14)
    北朝鮮が「楽園」であるとの宣伝をされて北朝鮮にわたった帰国者らであったが、 北朝鮮が実際には「楽園」と異なるごとは、相手方北朝鮮政府と同相手方朝鮮赤十字 はもちろん、相手方日本政府、相手方朝鮮総連、そして相手方国際赤十字も知っていた と考えられるし、少なくとも当然知るべきであった。よって、相手方らは、申立人らの誤解 を解かないままには申立人らを帰還させない、という行動をとるべきであった。当時の韓 国メディアは、北朝鮮の現状が楽園と程遠いことを多数報道していたし、帰還者たちは 北朝鮮到着後まもなくして自らの親族などにあててそれぞれその現状をなんとかして知 らせようと手紙などの手段で訴え、その実情は口コミなどを通じて広がった。それ以外に も、日本国内においても独立の立場から北朝鮮の赤裸々な状況を報告していた資料が ある。代表的なものとして以下のような資料がある。

    (A) 関貴星『楽園の夢破れて 北朝鮮の真相』亜紀書房(1997.3.30)
    同書は、1962年に全貌社から出版されたものである。その後絶版となるも、1997 年に亜紀書房から復刻出版されており、これを甲10として提出する。関氏は、出版当 時、朝鮮総連中央財政委員で、1957年から帰還事業後の1960年に、平壌に数回 渡航しており、同年の渡航は北朝鮮に帰国した同胞の状況を確認することを、目的と していた。その結果、「在日同胞に祖国の恐るべき独裁政治の真実と、残虐非人道 的な社会体制を訴えつづけてきた」のである。同書には、帰国者からの手紙も約20通 が紹介されており、北朝鮮の内情を知るうえで決定的な資料と認定できる。

    (B) 韓弘建『此の罪悪を見よ 北鮮脱出者の手記』萌文社(初版1952.6.25、8版1953.3.25)(甲11)
    朝鮮戦争、終結前の非常に貴重な北朝鮮脱出者の記録であり、出身成分について、 戦後日本で詳細に書かれた最初の記録である。甲11は、初版から僅か9ヶ月後に 第8版が出版されており当時相当な反響をもって読まれたことが伺われる。

    (2) 相手方らが、第一次帰国船が出発した時点において、北朝鮮国内が「楽園」であると誤解をしていた場合であっても、申立人らに早期に日本への帰国ないし往来を自由にさせるべき作為義務を免れないこと
    仮に、相手方らが、第一次帰国船が出発した時点で、北朝鮮国内が「楽園」であるとの 誤解をしていた場合でも(その時点での真摯な調査の不足の問題もある)、その後、自ら の関与によって北朝鮮に渡った人々の運命や状況について真 に調査又は注目を続け る責任がある。また、当時は、上記『楽園の夢破れて 北朝鮮の真相』(甲10)の出版を はじめ様々な情報が流れていたものであり、遅くとも1962年頃には当然北朝鮮が 「楽園」でない事実を容易に知ることができた。よって、遅くとも1962年頃には相手方 らは、自らが関与をして帰還(先行行為)させた者達が、現実には、事実誤認の情報に 基づいて帰国意思を形成したものであり、北朝鮮の国内状況を正しく認識していれば 帰還しなかった者達が多数いたことを認識していた。帰国を働きかけた行為及び、意思 確認を含む帰国実施の先行行為に基づき、申立人らの最低限の人権の保障された 人間らしい生活をする権利及び現状に回復される権利(憲法13条)の侵害なきよう、 今も北朝鮮に帰還者らを北朝鮮にいる帰還者らを北朝鮮の惨状に放置せず、早期に 日本への帰国ないし往来を自由にさせるべき義務が相手方らに存在し、その作為義務 は現在も継続している。そして、本件では、帰還者が、虚偽の情報に基づく錯誤から 北朝鮮に渡航したものであるから、現状回復される権利を有していること、その義務を 遂行せず放置した場合には、帰還者らの生命、身体「人間らしい生活をする権利」 (憲法13条)を侵害することにつき、遅くとも1962年頃には相手方らは予言し得た。 また、相手方らが、申立人ら帰還者の権利侵害を回避するため、関係各機関を調整し、 日本への帰国・往来の自由を確保することは容易ではないものの可能であり、結果回避 可能性も認められる。
    本件では、拉致被害者の問題とは異なり、帰還者たちの存在については相手方北朝鮮 政府も認めている。相手方日本政府や同国際赤十字、同日本赤十字、同朝鮮総連らが 一致団結して真 に相手方北朝鮮政府と対話や、相手方北朝鮮政府に対する政治的 圧力を通じて人道的な措置としての自由往来を相手方北朝鮮政府に応諾させることは 十分可能である。
    よって、相手方らには、申立人らを含む帰還者を北朝鮮への帰還へ導いた先行行為に 基づき、申立人らの誤認を知った時から速やかに、希望者の日本への帰還(自由往来)を 含む救済措置を実現すべく、あらゆる行動をとる義務があったし、現在もその義務を負って いる。しかし、相手方らはかかる義務を果たしていないのであるから、相手方らには、 申立人らを早期に日本への帰国ないし往来を自由にさせるべき義務を怠った作為義務 違反が存する。その後、北朝鮮は単に「楽園」でなかったというだけでなく、過酷な人権 侵害国家であるということが明らかになってきた。そのような悲惨な現実が明らかになるに 従い、申立人らの救  済に向けて真摯かつ強力な行動を迅速にとる相手方らの作為義 務の緊急性は高まるばかりである。

  4. 申立人らの補償を受ける権利(rights to reparation)を保障する義務
    また、かかる重大な人権侵害の被害者に対しては、2005年に国連総会において採択さ れた国際人権法の深刻な侵害及び国際人道法の重大な侵害の被害者の救済および補償 に対する権利に関する基本原則およびガイドライン(Basic Principles and Guidelines on the Right to a Remedy and Reparation for Victims of Gross Violations of International Human Rights Law and Serious Violations of International Humanitarian Law,甲15)が 指摘するように、被害者には、適切な補償(reparation)を受ける権利がある。かかるガイド ラインの定める被害者の補償を受ける権利の内容は多岐に渡るが、いうまでもなく、被害を 受ける前の状態に戻る権利も含まれる(甲15・パラグラフ19)。したがって、被害者は、 北朝鮮に渡航する以前の状態に戻る権利を有する。そのため、被害者には、希望する 場合には少なくとも渡航前の居住国であった日本との自由往来が認められるべきである。 被害者には、家族統合の権利があることからすれば、当然に自由往来の対象に被害者の 家族が含まれるべきである。また、仮に渡航者が北朝鮮に残る場合であっても、被害を受 ける前の状態に戻る権利に鑑みれば、日本における場合と同等のあらゆる人権保障及び 健康で文化的な最低限度の生活が保障されるべきである。かかる権利の実現について、 まず帰還事業の当事者である日本及び北朝鮮が必要な措置ないし支援を講じるべきで ある。そして、相手方朝鮮総連、同日本赤十字、同朝鮮赤十字及び、同国際赤十字も、 かかる措置ないし支援の実現に向けて相手方日本政府及び同北朝鮮政府を促し、特に 同北朝鮮政府の対して必要な協力を行うべきである。 さらに、同ガイドラインによれば、人権侵害の真相究明(甲15・パラグラフ22(b)、 パラグラフ24)や賠償(甲15・パラグラフ20)、責任者らが行動を取らない/取れない場合 には政府が補償及びその他の支援に関する国家的プログラムを展開すること(甲15・パラ グラフ16)なども被害者の権利に含まれている。 したがって、相手方日本政府は国会などで真相究明のための調査委を設立し、帰還事業 に伴う人権侵害の発生の原因究明、これまで採られた各相手方による救済措置の究明、 その効果の検証、被害者に対する補償に向けた調査・提言を行うべきである。 また、相手方北朝鮮政府、同朝鮮総連、同日本赤十字、同朝鮮赤十字及び同国際赤十字 も、前記国会調査委への協力を含め、帰還事業に伴う人権侵害の真相究明に協力すべき である。

  5. 相手方らの行動の欠如
    しかるに、現時点では、帰還事業に関連した措置としては、相手方日本と相手方北朝鮮   政府が2014年5月29日に行った合意(甲9)の範囲、すなわち、帰還事業により日本から 北朝鮮に渡航した日本人に関する調査に止まっている。 そこで、申立人らは、申立の趣旨記載のとおりの申立てを行う次第である。

以 上


証拠方法

  • 甲1  Human Rights Council, Reports of the detailed findings of the commision of inquiry on human rights in the Democratic People's Republic of Korea, 7 February 2014
  • 甲2  黒河星子 「1950年代の在日朝鮮人政策と北朝鮮帰還事業ー帰国事業の展開過程を軸にー」(史林92巻3号2009年5月、61頁以下)
  • 甲3  「独占入手「北朝鮮収容所」名簿 日本関係者「160人」の運命」 Yomiuri Weekly2004 年11月21日 21頁)
  • 甲4  菊池嘉晃 『北朝鮮帰国事業ー「壮大な拉致」か追放かー』 (中央公論新社、2009年)
  • 甲5  金英達・高柳俊男編『北朝鮮帰国事業関係資料集』 (新幹社、1995年)
  • 甲6  菊池嘉晃「帰国運動・帰国事業と帰国者の「悲劇」(『北朝鮮帰国者問題の歴史と課題』新幹社、2009年)
  • 甲7  在日本朝鮮人総連合会中央常任委員会宣伝部編「在日同胞の帰国実現のためにー帰国問題に関する資料及び回答」(『光射せ!』創刊2号 2008年76-93頁)
  • 甲8  朴正鎮「国際関係から見た帰国事業ー赤十字国際委員会の参加問題を中心に」(『帰国運動とは何だったのか』平凡社、2005年)
  • 甲9  平成26年5月29日発表 日朝政府間合意文書
  • 甲10 関貴星『楽園の夢破れて 北朝鮮の真相』 (亜紀書房、1997年)
  • 甲11 韓弘建『此の罪悪を見よ 北朝鮮脱出者の手記』 (萌文社、1952年)
  • 甲12 毎日新聞 2006.08.04 東京夕刊 1頁 政治面「北朝鮮:「出身成分」調査、60年代に日本政府把握--明治大助教授が分析」
  • 甲13 テッサ・モーリスースズキ『北ア朝鮮へのエクソダスー「帰国事業」の影をたどる』(朝日新聞社、2007年)
  • 甲14 陳述書(大阪経済大学准教授山田文明)
  • 甲15 Basic Principles and Guidelines on the Right to a Remedy and Reparation for Victims of Gross Violations of International Human Rights Law and Serious Violations of International Humanitarian Law、A/RES/60/147
  • 甲16 「平壌の水槽」(美哲煥、ポプラ社、2003年)
  • 甲17 朝鮮民主主義人民共和国創建10周年記念慶祝大会でおこなった金日成の報告の中から(『祖国は持っている!ー在日同胞の帰国問題に関する文献』平壌:1959年、20頁)
  • 甲18 朝鮮民主主義人民共和国外務省声明(『祖国は持っている!ー在日同胞の帰国問題に関する文献』22-26頁)
  • 甲19 金一副首相 朝鮮中央通信社記者の質問に答う(『祖国は持っている!ー在日同胞の帰国問題に関する文献』22-26頁)
  • 甲20 朝鮮赤十字会中央委員会委員長が日本赤十字社社長におくった電文(『祖国は持っている!ー在日同胞の帰国問題に関する文献』107-108頁)
  • 甲21 朴正鎮「北朝鮮にとって『帰国事業』とはなんだったのか」(『帰国運動とは何だったのか』平凡社、2005年)
  • 甲22 陳述書(申立人;川崎栄子)
  • 甲23 同上(申立人:石川学)
  • 甲24 同上(申立人:匿名希望者)


※内容準備中





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