在日“北送・帰還・帰国”事業・拉致 等、北朝鮮人権改善KOA(NGOモドゥモイジャ)
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北朝鮮帰還事業

















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戦争の記憶  朝鮮に帰った“戦友”も   (定年時代 2016、4下旬号)

名前 : 管理者  日付 : 16-04-22 20:40  HIT : 35163
1945、8、30、午前 横鎮十五特葉山隊(横須科賀鎮守府第十五特別陸戦隊葉山隊=葉山長者園およびその周辺を宿舎とする海軍陸戦隊)数十人は厚木海軍航空隊警備の任を解かれ宿舎に戻った。

ところが驚いたことに出発時は数十人いた士官、下士官は二等兵曹一人のみ残し誰もいなかった。

その兵曹の発行する証明書でわれら各人は故郷まで無料で列車に乗れるということだが、兵曹の話では、一人当たり400円の復員手当は当時その場にいた残留者で山分けして今は何にもないとのことだった。

ならば自分が鍵を管理する、主計隊の倉庫の中身を山分けしようということになった。
庫内にはサケやイワシの缶詰や赤飯の缶詰、真っ白の純毛の毛布といったものが山と積まれていた。
分配作業をしているうちに朝鮮半島まで帰る兵が十数人いることが分かり、その者たちには赤飯の缶詰などをより多く分配した。

分配品はやはり庫内にあった南京袋に詰め込んだが、「これでは重くて逗子駅まで運べない」という声が上がってきた。それで町内でただ一軒の場力屋(今の運送業者)に事情を話しサケ缶3箱(1箱24個入り)を積むと明け方の一番か二番電車に間に合うよう、逗子駅まで
運んでもらうことで話がついた。

私自身は近衛兵(葉山御用邸警備)の宿舎にいたがそこの整理を終えて午前10時ごろ逗子駅から上野駅へと出発した。電車が大船駅に着いてみると私より数時間前に出発したはずの、半島まで帰る兵たちはまだいるのではないか。

「おーい、達者でな」と声を掛けると、「早川さーん」と返してきた。主計科であった私は兵科の連中とあまり言葉を交わしたことがなく、昨日今日初めて言葉を交わした仲であったが、何がそうさせたのか分からない。

それから数年して朝鮮戦争が起きた。 彼らはいったいどうなっただろうか。

全く分からないまま過ぎた70年であった。  早川 博治  86歳

日本植民地時代に仕方なく日本軍に服務した朝鮮人たちがいた。
朝鮮半島解放で北朝鮮に帰国した「元日本兵」たちはだいたい親日分子、人民と国の反逆者とされ処刑された。4、3事件で済州島から日本に避難して来て、1959年から始まった「帰還事業」で北朝鮮に行った人たちの中でもかなりの人が殺された。

   







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